物理哲学!

物理学について私が考えたことをぶつぶつ呟きます。

数M理論!~宇宙の真理を巡って~

はじめに

初号から約半年、季節も冬から夏へと変わりましたね!2号と3号の間が長かったせいか随分と思ったより時間が経過してしまいました。

前回の記事までで既に数Mの全容は大体お分かり頂けたと思います。

私は言いたいことの半分以上はもう述べたつもりです。それでも、あれから思索を深め、また過去の記録などを見返す中で新たに書き加えたいことがポロポロと出てきたので、4回目の投稿を行いたいと思います。本理論は私自身、半信半疑であるものの、もしかしたら正しいのではないかと期待の方が大きい心境にあります。

皆様のお考えはどうかと、それもまた気にかかるところです。

さて、今回は以前述べたことも含めて重複の多い構成となってしまいました。ですので、既に分かっている所は積極的に読み飛ばして頂いて構いません。

今回も略号を念のため載せておきます。

ME=数学的要素  PE=物理的要素

数M理論=MP等価性理論(本ブログの理論)

また、当ブログの初号は非常に重要ですのでまだ読んでいらっしゃらない方は、読んでおくことを強く推奨します。

MP等価性からビッグバンメカニズムへ - 物理哲学! (hatenablog.com)

さて、今回は以前の記事で書いたことをまとめて更に付け足しを行いたいと思います。

まずは以前に書いたことのおさらいをしてみたいと思います。



数Mのおさらい

まずは簡単に数Mの主張を繰り返してみます。

数Mによれば万物はみなMEであり、この宇宙はビッグバンに始まる論理展開の結果として成立しているのであります。この世界はMEの集合体であり、万物の時間的変位はME展開の変位として考えられるのです。これは初号の「仮定」により提唱されたものであり、1論理展開は1プランク時間ごと発生しているということなのであります。まずはこれが数Mの土台となっていることを確認しておいてもらいたいと思います。

もっと考えを進めれば、現在の我々の世界とはこの膨大な数となった論理展開の結果としてのMEsそのものであると言えます。その中で我々もまたMEであり、周りのMEsと相互作用を行っているのです。そしてその周りのMEsをME展開系の系の内側から観測し、それを「PE」として受け止めているのです。そして我々はその観測を通してPE=MEから数学的情報を見出し、そこから精査して純粋な「数学」を生み出し、その概念を得たのです。

このときPE=MEなのですが、この系の客観視に当たる「数学」と系内から見て取った「物理学」をそれぞれ別物と捉えそれぞれにおいて研究が進められました。しかし、もちろん物理学は広く数学に等しく数学の言葉により解析が進められたのです。これは皆さんもご納得して頂けるものと思います。相互依存とも言えながらも隔てられた概念の数学と物理の状態であるがそこに一つのメスを入れようというのが、本数M理論なのであります。

 

PE=ME?

PE=MEという本論のこの提案は一見、陳皮に受け止められがちですが、それではPEとは一体何だと断言できるのでありましょうか?

理論に従う「元」として実体のない数理的存在としか言えないものでしょうか?また、例え実態のある数理的存在たり得るとしてPE=MEなる扱いは通常でも同様である、と答えられるでしょうか?

ある関数、ある数学空間の元、・・・などとPE=MEとして取扱っている、と。

しかし、通常の手法はPEをその数理的性質に応じて分類し、分類されたPEの性質について論ずるのであります。ここで注意して欲しいのはこのPEは、実際のPEではなく、数理的に理想化された、「仮想上の」PEということであります。あるPEがグループAに属すると仮定すればαなる性質をもつ、と言った形であり、MEはPE間関係などのPEの一般的性質に関する外観的理論の中で取扱われるのみで、一つ一つのPEの中に「論理文」が存在しているわけではないのです。このPEの理想化を通常の手法として見て取るべきなのです。

それに対し、数Mは仮想上のPEではなく、実際にある具体的なPEをそのままMEと見てとるのです。これが決定的な違いであります。

そしてその中では数MもそのPE=MEの「帯びる」(付随する)数学的性質について論ずることは通常と同様にあるといった具合です(MEの客観視)。違いはお分かりいただけたでしょうか?

PEの満たす性質=ME[通常]だけでなく、PE一つ一つがまたME[数M]なのです。

例>

[通常の場合]xy平面上の各点PをPEとしたとき、y=2xなる直線上の点は

「2点A(2,―1)、B(―2,1)からの距離が等しい」

などといった数理的性質を分析するのに対し、

[数Mの場合]各点P(x、y)一つ一つの中にこのような論理文としての数理的性質をもつ、即ち具体PE自身がMEそのもの。

 

通常研究に関しては後にも述べる通りグループ化の下のMEsなのであって、理想化の施されたMEやタイプ化グループ化クラス分けなどの操作と共に生じる統計論理学上の議論以上のものではありません。

このような考えは、エーテル説が覆されたのとちょうど逆で、理論の元以外の何物でもないとされた具体PEに対し、私はMEを代入しようとするものであります。これが、私が最初に感じたゾクゾクとした感覚をもたらしたものであることは初号で述べたとおりです。この考えが数Mの全ての始まりなのです。

数学至上主義

この私の考えは数学至上主義の下、考え出されたものであり、実際に数学は数学の体系内に閉じているのです。数学は物理学による、という意見もあるかもしれませんが、PE=MEであるから我々はMEからなるPEを観察し、その中で付随する数理的要素を得ているのです。言わばPEからヒントを得てはいますがPE=MEなのだから結局、MEはMEの体系内に閉じており、PEなる外部の存在を考える必要はないのです。

 

初期の数M/現在の通常

そうしたPEの本質に関する数M理論でありますが、この理論の基本的な有効範囲は初期宇宙におけるものでしょう。というのも宇宙誕生からの僅かの間に膨大な数の論理展開が行われ、具体的で個別のMEの情報についての解析は重要性を失ってしまうからであります。これは、統計力学と同じ事情でのことで、前回の記事で述べたとおりであります。そこでは代わりにMEの理想化、MEのグループ化が行われ、理想化の下、個MEや群MEの性質やMEの属するタイプやクラス間の関係性を考えることに重要性が移ることになるでしょう。そこでの支配的な考えは『統計論理学』なのであります。これについてはこれからもう少し詳しく述べます。

 

統計論理学

さて、本格的に統計論理学へ進もう!とは言え既にいくらか書いてしまったことですが・・・。

理想化と商集合

統計論理学とは以前の記事で書いたように論理数の膨大になった現在の物理学に対するアプローチです(⇔数Mと対峙する)。

一つ一つの具体的な論理文に対するものではなく、MEのタイプにより分類し、それらを商集合にまとめたものを考え、それらの元(同値類の中の理想[仮想]元)のもつ性質や商集合自身の性質などを取扱うのです。言い換えれば、具体的な個MEをグループ化した上での、グループの元の性質、グループ間関係などの解析ともいえましょう。

これは前回の記事で書いたものでありますが再考してみると

A:(数M)「M=x⇒N=2x」

  (通常)「M=x⇒N=ax」

などとなる。この式は以前の式と少し変えてありますが、その違いの意味は、

B:(数M)「M=1⇒N=2」

  (通常)「M=x⇒N=2x」

との比較の中で数M(B)では具体値なのに対し、数M(A)では変項xを含む式となっていることにあります。更にまたこの式は通常(B)と一致します。これはAの式の方がBよりも一般化の階層が高いことを意味するのです。

A、Bどちらがふさわしいのかは分かりかねますがこれらが数Mと通常の違いを浮き彫りにするということはできるでしょう。通常研究の一般化の要素は意味合いは違えどもAではa、Bではxに込められていることは明らかです。いずれも、ある種のME集合を類別化して商集合を作るのが通常と言えるでしょう。またaや2は商集合のラベリング、集合係数とでも言えましょう。

a、xは汎化。汎化に伴う同値類が生成されます。Bの商のラベリングは2、Aはaと思われます。少々混乱していますが、お許し願いたいと思います。A、Bともに線型対応とでも言うべきものをイメージしましたが間違っているかもしれません。しかし、間違っていてもこれらの議論は数M理論の議論に本質的な影響を与えることはないでしょうからあまり気にしないで良いと思います。

タイプ化クラス分け

また、少し違った考察ですが、タイプ化のほかクラス分けなどもあると思われます。集合論で見かけたこれらの言葉を拝借しましたが、実際に我々は今MEの集合についての話をしているのですから商集合やクラスなどといった数学的概念と今の統計論理学における関係性があると仮定することにそう無理はないようにも思えます。

しかし、実際にこれらの概念を統計論理学に具体的に適用することは簡単なことではないかもしれません。従ってここでは細かい議論は省き、適用可能性のみ触れるに留まることとします。しかし、重要な結論に至る可能性もあり、興味深い分野でありそうです。

 

統計論理学の破綻

このように現宇宙の解析において支配的であり、数M理論から示唆される「統計論理学」でありますが、この統計論理学の話の始まりは平衡状態におけるME解析というものでした。

時間の十分すぎた現宇宙での解析方法はこの統計論理学であることは間違いないでしょう。現在の我々の世界を記述するのに適した解析なのであります。我々の通常の研究は統計論理学に基づく解析であり、その基本概念を現PE(=論理平衡状態)に見て取るのです。十分展開の進んだ論理要素を基本とした物理学なのであり、一般化の施されたMEを基に取ります。

ところが、初期宇宙においては事情が異なるのです。

では、話を元に戻して初期宇宙に目を向けることにしましょう。

以前の記事でも書いたことですが、初期宇宙では論理数は少なく理想化MEというよりも個の具体MEの取扱いが重要となります。MEの統計化という考えはもはや通用しない、統計論理学の破綻とも言える事態がここに発生しているのです。

そこでの主役は数M的アプローチに移行します。

とにかく数Mの基本的な適用範囲は初期宇宙、通常の統計論理学は現宇宙に対するものであるといえるでしょう。よって数Mは初期宇宙において重要性を持つのです。そこに数Mの真骨頂があります。これこそが数M解析の重要性の主張で、数Mの核心であり、最も大きな到達点の一つです。

系の内と外

最後に、ME系の内と外という問題に触れてみたいと思います。我々はPEをMEと別物として認識する一方、PE=MEであることは述べました。

では一体この誤信はどこから来るのでしょうか?

我々はまた、周りのPE同様、ME以外の何物でもないことは以前述べたとおりであります。つまりは、我々はME展開の系内にいるのであり、周りのMEとも相互作用を起こしているのです。そしてそれらを「PE」という形で認識しているのです。一方、系の外から評価するME(及びその展開)を数学空間とみなすのです。

ここに、系の内と外という問題が発生しているのであります。

数Mの確認と「相互作用」

再三になりますが、ここまでをまとめて数M理論の復習をしておきましょう。

外観的に表現すれば、MEは、この宇宙及びME展開の始まりとして、まず最初に特定の公理系が設定されていたことになるでしょう。そこから論理展開が特定のルールに従って始まりました。最初は、論理数は比較的に少なかったのでした(数Mの適用範囲)。やがて論理数は膨大となり(統計論理学)、また論理の変位の仕方も落ち着き平衡状態となりました。そのME系の中のMEsはまた、周りのMEと相互作用します。落ち着いた宇宙において我々が生まれ周りのMEと相互作用してきたのです。

ここで周りのMEについて、電磁波などの「波」は相互作用、空間的体積をもつ「粒子」はMEそのものなどではないかと想像します。また、相互作用とはME間作用なので、論理間作用、いわゆる「解法」の一種ではないかと思われます。

そういった相互作用の中で我々は周りのMEを「PE」という形で認識しているのです。それに対し、ME展開を系の外から見て論ずるものを「数学」という形で認識しているのです。また、数学は様々な公理系を設定できるのに対し、この宇宙の公理系は唯一つであることも特筆すべき事項であると思います。

このようにME展開があってもPEを系の外から考察する見方が数Mであり、客観的。

それに対し、系の内側から見たME解析が通常の見方であり、主観的とも言えましょう。

その一方で前号の第3号でPE=MEと見る数Mの手法が直接的、PE=理想化MEと見る通常の手法を間接的と述べました。この[直接的⇔間接的]と系の内と外の[客観的⇔主観的]との違いに注意しましょう!混同しないように。

 

むすび

さて、今回も数Mについていろいろと考えてみましたが、いかがだったでしょうか?

この数Mが本当で、尚、方法論も確立されていたなら爆発的な威力があると思うのでドキドキしているのが本音です。方法論については一応、考えてみたものがあるのですが、私の実力ではとてもまともなものにはなっていません。それはまた後に書くかもしれません。

M理論は私が無知故、それが正しいとも正しくないとも言えないのでもどかしいのですが、読者の方々のご判断に委ねようと思います。数Mに関して読者の方々に幾分かでも考えて頂ければ幸いです。

それではこの辺で今回の記述を終えたいと思います。

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

 

それではまた!