物理哲学!

物理学について私が考えたことをぶつぶつ呟きます。

数M理論!~宇宙の真理の更なる追求~

 

 

△[はじめに]

暑い日が続いています。皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、物理哲学!では大したイベントは起こっていません。閲覧者もポロポロ程度で、もっと宣伝すべきかと迷っています。

さて、最後の記事から1ヶ月以上経ち、その間にまた考えたこともあったので更に呟きたいと思います。

 

一連の流れという点ではいつもと同じ感じで、つながりはあまりなくスラスラ進めないかもしれませんが、それなりに進展があったと考えています。

少々長くなってしまいましたが、最後までお付き合いの程よろしくお願い致します。きっと楽しい知的探訪となると思います。

銀河2

 

今回も略号を載せておきます。

ME=数学的要素   PE=物理的要素

数M理論=MP等価性理論(当ブログの理論)

初号を読んでいない方はまずこちらからお読みください。

MP等価性からビッグバンメカニズムへ - 物理哲学! (hatenablog.com)

 

▲[通常もME=PE]

PEというのは古典力学では位置、速度、電荷密度、質量密度(rot、divも含めてもよい)などで与えられるのかもしれないが、その情報量は有限個である。

 

その一方、量子力学では波動関数を始めとした空間上の関数などが対応する。その上で、外部論理作用素を作用させて物理情報を得るのである。例えば

(x,y,z)に対して波動関数Φが

Φ(x,y,z)=xy+z

で与えられているならば 

 Φx=∂Φ/∂x=y

 Γ=Φ(x,y,z)-Φ(z,x,y)=(y-z)(x-1)

 

などである。

私のこの解釈が正しいか怪しいが、仮に正しいとさせて頂くと少々以前と事情が異なるような気がしてきたのである。と言うのも以前は数Mと通常の3大相違点として、

①初期ME基準か現PE基準か

②具体MEか理想化MEか

③PE=MEかPE≠MEか

を挙げたが、どうやら量子力学では各PEは波動関数など、位置を始めとした関数などのMEそのものに等しく扱われているのではないかと思うようになってきたのである。

 

MEの重ね合わせとして各点の情報が多い、また見方を変えて各PEのもつ情報量の多いことが言えよう。

 

従って3大相違点のうち③が成り立たなくなる。前回の記事で大いに主張した考えであるため、この相違点が崩れるとなると少々痛い。それでも現在の研究が統計論理学によりなっている点とあくまでも現在の視点からのみによって成っている点は以前の主張の通りである。

なぜPE≠MEだと考えたかと言えばそれは私のイメージの中では通常の物理学が古典力学の中にあったからである。

私の理解は量子力学の基礎的なうっすらとした知識のみのため踏み込んで論ずることはできないが、現代物理学が③の領域まで踏み込んでいることはおそらく正しいと思う。

しかし、繰り返しの主張になるが、論理数の膨大となった「現在」の下、「系の内側にいる」我々が周りのMEをPEとして取扱うときはやはり、現在の宇宙の構成要素たるMEから考え始めてかつ、それは論理平衡状態のMEsだから統計論理学的なものになろう。

これは基本的に系の外からの視点においてのものではなく、数Mと異なる。

 

以上から、どうやら通常もME=PE則ち③は崩れそうだが、①現PE基準②理想化MEに関しては依然として正しいとしてよいという結論を得る。

 

▲[通常の帰納性]

ところで、数MではPEの解析は演繹的である一方で、通常物理学は帰納側面をもつ。

というのは通常研究は論理展開の果ての状態(①現PE)を基とし、膨大な数となった論理(②統計論理学)を近似的に取扱う統計論理学の立場を取るからである。

あくまでも展開結果からその論理群の性質を統計的立場から見てとるということなのである。そのためその考察は展開後の状態から見てとれる論理群の間の関係性ということであり、その解析は具体ME解析ではなく「展開系の性質」を語るに留まる。

 

ここで、一つ注意したいのは、定理でない論理文は直ぐに変位してしまうから統計論理学で扱うのは主に定理であると想像される。現物理学においての諸量はこの定理だと考えるのである。これは重要事項であるためしっかり押さえておいてもらいたい。

 

また、展開系の性質を突き詰めることは展開系の基となる公理系の性質を考えることであり、また、公理系が与える展開系の性質を考えることにもなる。これは展開後の状態から基となる公理系の推定をすることと究極的には言えよう。正に帰納的である。

これに対し、数Mでは原理的には完全に演繹的で、これが通常研究の帰納性と数Mの演繹性を明示するのである。

 

もちろん演繹的である方が正確な上にその結果を得るプロセスが簡易であることから望ましいのであるが、しかし、何段階もの展開となるとその論理数が膨大となり、実行が困難を帰する。

そこで我々は通常の研究で行う統計的立場からの論理分析を行うのである。これが現在の解析の立場であることはもう述べた。

現代物理学の立場からの研究にも一理あることは以前にも述べた。

しかし、現代物理学は一部で既に終焉を迎えている、とまで言われるほど複雑で困難なものになりつつある。そういった今でこそ、真逆の立場から進める数M研究の優位性があるのではないかと思うのである。

 

ここまで現在の宇宙においての数Mについて多くを割いたが、数Mの本領はビッグバンにあり、ビッグバンに限って数Mの分析をすれば良いのではないかとも思う。これは初号から一貫して述べてきたことである。

ただ、現宇宙の中にも数Mの考えは存在している可能性も大いにあると思うので現在への応用も考えられる。実際、考えてみたが、それについてはまたいつかとしたいと思う。

 

ABC予想2

 

▲[抽象→具体]

さて、我々は通常研究の中で個別のMEを一般化するという解析上の立場を取ってきた。一般化し、統一的に取扱うのだと。

しかし、数Mのスタイルは画一化して見て取れるPEの中にも個別のME=PEを見て取るという真逆の立場をここでも取る。

 

先日NHKABC予想の放送を見たとき具体→抽象という伝統的な考え方から離れて抽象概念から具体概念への移行を求めるという新たな考えの導入のような話があったことと理解している。それと話が少々違うかもしれないが私のイメージにおいても具体ME解析への移行と言った、似たようなところがある。

こんなことを書いて恐縮だが、数M理論は次代の先を行っているのではないかと思うのである。ちょっと言い過ぎか?

 

▲[1プランク体積1論理文?]

さて、話は変わり先のPE=MEであるという訂正をさせてもらった。

しかし考えてみて欲しい。例えば電子の波動関数は電子の位置が広がりをもって存在していることを意味する。

 

しかし、以前私は1プランク体積1論理文ということを述べた。それと電子が1論理文だとすると1電子が広がりをもって存在するということと矛盾する結果に至るのである。

したがってこの両方が同時に成立することはあり得ない。

故に1プランク体積1論理文ではないか、電子が1論理文ではない、のいずれかは成立っていなければならない。

しかし、電子はおそらく1論理文であろうから1プランク体積1論理文ではないとも考えられる。(ところが、Δp・Δr=hなる式がヒントを与えてくれそうな気もする・・・。なぜならΔpが時間-1の次元をもっていることから時間→0とするとΔr→0となるのでは?と安易な考えをもってしまうのだが・・・よく解らない。)

 

とはいえ1プランク体積の解釈は様々できようから数Mには決定的な打撃を与えないであろうし、そう深く考える必要もないと思うものの数Mによる膨張宇宙の理由の説明ができなくなってしまうなどいろいろと影響は大きいと思うので、1プランク体積1論理文なる仮定は保持していかなければならないであろう。別の解釈が必要なのである。

 

それが何なのか今は解らないが(Δp・Δr=hがカギかも)取りあえずそれは今後の課題ということにしておこう。今は数Mが正しいという仮定の下、話を進めたいと思う。

その中で解決の方向性が見えてくるかもしれないし、矛盾点が浮き彫りになってくるかもしれないので、今は進めるだけ進めたいと思う。今の私はその辺のことを解説する程の理解をしていないのである。

 

解決法の一つとしては3次元空間なるものは平衡状態における疑似空間と言ったところである。「3次元空間」とは現在の物理概念の中でME空間を系内で擬似的に解析する際に用いられるものなのだ。平衡状態の現在では「3次元」と見なすのが適当な論理状態なのである。

その中で膨張宇宙と論理膨張の関連を見るのである。

 

とにかく詳しいことは後に回そう。尚、初期宇宙では体積なる概念があったかということすら怪しい!

 

▲[相互作用]

我々は相互作用の中を生きている。したがって考察の始まりは相互作用についてであろう。

しかし、現代物理学においてはもはや直接的な相互作用をもたないものでもそれを考察対象とする。したがって我々にとって相互作用の関係ないものでも広く「性質」と呼ぼう。

しかし、通常はあくまでも理想化MEのことであり、理想化の下、何らかの形で間接的に相互関係のあるPE=MEを考えるのである。

性質とは外部作用をもたらすものだけか、あるいは内部ME情報も含むものかよく解っていないのが実情である。言葉の定義域といったものであろう。

 

▲[ME=PEのインスピレーション]

私の主張の根幹はME=PEということであった。しかし、これが否定される事態と相成ったのである。とはいえ、主張は弱まってもそれでも残りの主張だけでもかなり大きい故、まだまだ考え応えある。そう失望する必要ない。

 

もともとはME=PEがインスピレーションの基であると認識していたが、通常もME=PEだという考えに至っても尚、そのインスピレーションの余韻が残っているのである。よくよく考えてみると①および②の違いもあり、最初に受けた衝撃的なものの中に含まれていたのだと思う。

通常研究とは現PE基準での理想化の下のME=PE解析だということ。

更に言えば、4つめ5つめの相違点もまだあるかもしれないが、そこはあまり考えなくてもよいであろう。とにかく私のインスピレーションは既存の概念とは大きく異なる物理学対象の捉え方だったのである。量子力学の考え方とも大分違ったものであることは確かである。

 

△[あとがき]

以上が今回の考察内容でした。

読者の方々はどのような考えを持たれたでしょうか?何らかの知的刺激を得られたでしょうか?

 

文章にまとまりがなく、つながり感が薄い印象があったものと思いますが、前回の記事より内容的には深いものであると感じられたのではないでしょうか。

まだ本文として書きたいことがありますが、長くなってしまったので次回以降のお楽しみと言うことにしたいと思います。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

それではまた!